石見の怪談 つづき

(石見怪談の続き)

先月はここでダーリンからお呼びがかかったので急遽家に帰ることになったのだった。「まるでオンデマンドの見逃し番組みたい」綾子は高まる動悸を抑え固唾を飲んだ。すぐに例のごとく鼻歌が始まったので綾子はさらに近づくためもう1本前の樹の影に身を移した。女の姿はもう目と鼻の先にあり後戻りはあり得なかった。

「コッコケコッ」
女が何かを口ずさんだ。
「コッコケコッコ」「?あ、これ何だっけ」
綾子は記憶の泉のみなもにさざなみが立つような感覚を覚え聞き耳を立てた。それを察知した女は洗濯の手を止めゆっくり綾子の方を振り向きニヤリとした。とっさにまた樹の陰に隠れようとしたが橋のたもとに立つ水銀灯にほのかに浮き出された初めて見る女の顔に足がすくみ動けなかった。そしてその女の視線が雲の糸のように絡みつきむしろ引っ張られるように次第に適度に保っていた距離が狭まっていった。
「コッコケコッコ、夜が明けた、コッ」
「そうだワ、これじいちゃんとばあちゃんがよく輪唱していた歌だワ」
女はさらに笑みを浮かべ、うなずくように首を二度三度、縦に振った。
「コッコケコッコー、夜が明けた、コッ」「コッコケコッコー、夜が明けた」
もう女の主導は明らかで止めようがなかった。
「コッコケコッコー、夜が明けたー、お空は真っ赤な朝焼けだー、元気よく、さぁ飛び起きてー、朝の挨拶いたしましょうー、皆さんおはようございますー、コッ」
女はエンドレスに歌いながら洗濯物を片付けると綾子を促すような素振りをして神社の方へ戻り始めた。綾子はいつの間にか女に捕らわれていて、コッコケコッコーと輪唱を続けながら夢遊病者のように後をついていき、天空の暗闇に消える階段を一歩一歩登り始めた。暗くて下からはもうその姿が確認できないあたりまで登ってきたところで突然足を踏み外し、綾子は転んで膝を強く打った。
「ウゥッ、いた〜い、」
そこで我に返ったのは不幸中の幸いだった。ふと見上げると十段ほど先を行く女は振り返ることもなくひたすら登り続けていた。
「そうだワ、私、後をつけているはずが連れて行かれてたワ」
女にはまだ気づかれていないと分かった綾子はすぐに起き上がって傍の大きな杉の樹陰に身を隠した。そしてさらに尾行を続けた。

境内は思いのほか狭く女が至近距離にあるのでにわかに設営された一人芝居の舞台のようだった。とは言え無論綾子にはそんな余裕はあろうはずもなかった。女はコンコン様の前に跪きしばらく手を合わせていたがゆっくり脇に置いていた洗面器からあの赤い布を取り出すとそれをコンコン様の首にかけ額をコンコン様の鼻に押し付けてさめざめと泣いた。あれは前掛けだったんだと綾子は合点した。突然女は立ち上がり足早に社の扉を開け素早く中に入っていったその時、マナーモードが鳴り、見るとダーリンからのメールだった。
「1人で大丈夫?今検索したんだけどさぁ、その高津稲荷神社って昔々は狐と人間の悲しい恋物語の言い伝えがあって、よくアニメとかであるじゃん、あれそこの話が基になってんだって。でさぁ、コンコン様の前掛けがなぜ赤いのかってのはさぁ…、」
綾子は背筋が寒くなり思わずスマホを抱きしめた。またなんでこのタイミングでこんなメールしてくんのよーとブーたれるところだったが、今は少しでも情報を得たいと言う思いもありついつい次ページ次ページとめくっていった。
「ただアニメと違うのは狐の方が女だったみたい…」
ギョッと感じたその瞬間ギーときしむ音がして社の扉が開いて女が飛び出てきた。襲いかかってきそうな勢いだったので綾子はもうこれまでかと思い地べたにうずくまった。

出てきたのはジーンズにバンダナの高校生位の女の子だった。女の子は軽い足取りでくねくねと曲がった緩やかな坂道を降りて新聞販売店に入って行った。
「おー、玲奈ちゃん、今朝は早いね、ああそうか、今日は満月の日だったなぁ、コンコン様の前掛けを洗ったげる日だ。」
「うん、でもそろそろ新しいのに取っ替えてあげないと。もう結構擦り切れてきちゃった」
「お母さんがやってた時から替えてないんじゃないの」
「そうかも」
「あれ、誰かそこに来てるんじゃ」
「あっ、さっきのお姉ちゃん」
綾子は見つかってしまって一瞬慌てたが
「あ、あのう、朝刊先にもらって帰ってもいいですか、三丁目の山田です。」
我ながら気転が利いたなぁと胸を撫で下ろしながら帰路についた。
「フフッ、フアッ、フアッ、グワッハハハハ」
綾子がこみ上げてくる安堵の喜びに思わず何もかも吹き飛ばしてしまいそうなほど大きな声で笑ったがすぐ周囲の静寂に気づき自制した。
「もう3時じゃん、やべ、明日は2限に講義があったんだった、早く帰って寝ヨ寝ヨ」
満月はもう既に西の空の雲の影に隠れてしまったが、綾子の胸の中の雲は晴れ渡り、まるで満月が心の闇の隅々を照らしているようにすがすがしかった。

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